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2008年8月

2008年8月30日 (土)

時代遅れ

これにしようかな?
 何かの操作間違いで?登録アドレスが消滅してしまった我が携帯電話は未だに空っぽのまま充電器の上に放置されています。学生さんのメール作成の指使いに驚嘆しながら,やっぱり携帯はあまり好きになれないのですが「便利」であることは確かです。問題はその機能を充分に使い切れないでいる「時代遅れ」な私の側にあるのでしょう。
 確かに「時代」は変わりました。「じゃ,○○時頃××駅の南口でね」という携帯での簡単なやり取りを聞いていて「あれでお互い出会えるのかな?」などと心配になってしまいますが,なんのことはない「今どこメール」とかGPSとかいうものが手軽に自分の位置を相手に教えてくれたりするのだそうですね。こうした機器の開発で「あたりまえの便利さ」を享受する時代の申し子達にとっては,まさに「あたりまえの生活」を当然のこととして送っているわけです。
 約束のデートの朝「うまく来てくれるかなぁ」と待ち合わせ場所で顔を見るまでお互いにドキドキしていた「あの思い」はもう時代遅れなものになってしまったのですね。(GP4317)

2008年8月23日 (土)

インスタントコーヒー

研究室愛用機
 私は大の珈琲党で研究室にはエスプレッソ・マシンを置いています。そして毎年の新人ゼミ生は珈琲にまつわるお決まりの「うんちく」を一通り聞かされたうえに苦いエスプレッソを飲まされるのが「お約束」となっております。もちろん児童虐待と言われないようにティーバッグも言い訳程度に置いてはありますが。
 しかし,どんなに凝って焙煎された珈琲豆よりも,訪問先で出された(明らかに)粉末コーヒーであろうと思われる「飲み物」を美味いと感じたことが何度もあります。訳の分からない会議(怪議)の途中で出された,救いのインスタントコーヒーが味自慢の珈琲専門店のそれよりも数百倍おいしく変化していることに気がつかされる方も数多くいらっしゃるに違いありません。
 人の味覚や印象はその場の状況や雰囲気で大きく変化します。まして,私達の気持ちや人と人との心の状態などは正にその場の関係性や文脈の中で成立していると言っても過言ではありません。家族が一つのテーブルを囲んで賑やかに過ごす,あの週末の食卓が子どもたちにとって世界一ごちそうであることは彼らの笑顔が証明してくれています。
 もちろん,勤め帰りにほっと(hot)立ち寄る自販機の明かりと缶コーヒーの温もりに一日の疲れを癒しているお父さん達にも心からの共感を込めてエールを送りましょう。(GP4317)

2008年8月19日 (火)

メンフレこぼれ話(その2)

 年度も押し迫った3月のある日,市内の小学校でメンタルフレンド活動を続けてきた男子学生2名が突然に研究室へ飛び込んできました。きっと階段を3階まで駆け上がってきたのでしょう,二人とも「ハァハァ」と肩で息をしているのです。その勢いに何事が起きたのかと驚いて二人の顔を確認した私は再び慌ててしまいました。何故なら,いい歳をした男子学生が今にも泣き出さんばかりの表情(そのうちの一人は確かにもう涙目でした)で「先生,聞いてください!!」と始めたのですから。でも,ご心配なく。事の顛末はこうでした。
 3年近く活動を続けてきた小学校の児童から「卒業式への招待状」が二人に届き,半信半疑で今朝S小学校へ出向いたら体育館の来賓席に自分たちの椅子が用意してあった。(中略)式の最後に卒業していく子どもたち一人一人から「お兄さんありがとうございました」と感謝の言葉があった。もうこらえ切れずに泣いてしまった。この感激を今すぐ誰かに伝えたくて,二人で研究室へ報告に来てくれたというのです。
 もとより,メンタルフレンド活動は自分と他者との「関わり」の中で成立しているのですが,実はその活動を通して「メンフレさん自身が手に入れるもの」が大きいことに気付かされます。小学校で出会う子どもたちは「昨日の自分」なわけで,結果として子どもたちのメッセージに励まされているメンフレさんこそ「あの頃の未来」に立っている自分なのですから。3年間一度も登校したことの無かった中学生が体育館の一番後ろで卒業式にだけ参加(挑戦)してくれて,式後の生徒玄関の遠くから彼と目と目が会った時に「大学でメンフレ活動に巡り会えて本当に良かったと思いました。」というのもある二期生の言葉です。
 かく言う私自身もメンタルフレンド活動に燃えている学生さんたちの弾むような言葉に元気をいただき,癒されているのは勿論です。(GP4317)

2008年8月11日 (月)

オリンピック

 寝不足でつらい明日になることが分かっていながら毎晩オリンピックを見ています。柔道や水泳など日本中が関心を持って応援する種目にも一応つきあって観戦はしていますが,どちらかというと衛星放送が好きです。BSの画面にはどう頑張っても2次予選通過が精一杯のようなマイナー(失礼!)な競技に黙々と挑戦し続ける日本選手の姿が映し出されています。彼らの4年間の努力も花形選手のそれと同じ重みのある時間だったに違いありません。人間の歴史(生活)の本当の部分は私たち,名もない人々(重ねて失礼!!)の営々とした日常の積み上げによって組み立てられてきているのでしょう。みんな頑張れ。

 ところで,このお祭りが終わると「パラリンピック」なるものが始まりますが,なぜ本番が終わって使い古したような場所で期間だけを遅らせて「同じ人間」の「同じスポーツへの挑戦」が別枠で開催されるのでしょうか。これだけ技術革新の世の中で,なぜ「同一」にやれないのかいつも疑問に思っています。(GP4317)  ↓北京オリンピック公式スローガン
08new_slogan

2008年8月 5日 (火)

道具と機械

   私の机の周りにはPC本体を始めとして液晶ディスプレイ、プリンター、FAX、デジタル時計、ハードディスク、MO、USB切替器などなど、見渡せばおよそ機械の海に埋もれて仕事をしている自分に気がつきます。確かにそれらの「機械」は私たちの生活を飛躍的に便利、かつ快適にしてくれてはいますが、一方でいわゆる「道具」と言われていたものの数々がすっかり影を潜めてしまったような気がしてなりません。
 新築現場での便利で能率的な電動機械もそれはそれなりの操作技術が必要に違いありませんが,熟練の職人さんのカンナさばきとは似て非なる世界なのではないでしょうか。こうした今風の「機械」に操作のための「解説」が必要だとすれば「道具」の使い回しには確かな「経験」が必要です。使い込まれた「道具」には職人の個性や命が注ぎ込まれているとも聞きます。その意味で取扱説明書(限定情報)が一人歩きするマニュアル(機械)的サービスではなく「経験」に裏打ちされた職人(道具)的福祉実践を大切にしたいと思います。
 少し前に聞こえていた「スローフード・スローライフ」というコンセプトもかけ声だけに終わらせたくないものだと思ったりしています。(GP4317)