2016年5月20日 (金)

本の香り (4)

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 今日は、私のささやかなミステリー読書経験から大胆に絞り込んで、20世紀のハードボイルド探偵小説の不朽の名作に限定して紹介しましょう。

 第一はなんといってもダジール・ハメット『マルタの鷹〔改訳決定版〕』(ハヤカワ文庫)ということになるでしょう。マルタ島の秘宝をめぐる殺人事件、数人の男女の葛藤におけるハードボイルド探偵の自意識とそれゆえの宿命的な悲哀が描かれています。諏訪部浩一「『マルタの鷹』講義」研究社などという米文学研究者による本格的な解読もある位に後世にも注目されている作品です。ミステリーもこのような本格的な研究の俎上に乗ると、これは単なる「探偵小説」ではなく「恋愛小説」的面も備えた複雑な顔を持っている『文学』であるという領域に導かれることになります。ミステリーも一回ぐらいは原文でこのような丁寧な読み方をしたいと思います。ハメットには、このほかに代表作として『ガラスの鍵』(光文社文庫)がありますが、登場してくる探偵は私の好みではありません。しかし今では北欧ミステリーの最高の賞に「ガラスの鍵」賞がある位ですから今でもきっと評価は高いのでしょうね。

 第二はハメットが作った私立探偵像を継承し、ハードボイルド探偵小説をジャンルとして洗練させ、完成させたのがレイモンド・チャンドラーです。彼の小説に登場する探偵フィリップ・マーロウは今の日本でも良く知られています。なにしろダンディで知的な探偵像で、一番のお勧めは村上春樹訳『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ文庫)です。「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」というマーロウの有名なせりふは清水俊二訳『プレイバック』(ハヤカワ・ミステリー文庫)の最後に出てきます。

2016年2月18日 (木)

本の香り (3) 教養としてのミステリー読書が好きでないあなたへー

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 丸谷才一という作家に『快楽としてのミステリー』(ちくま文庫)という本があります。ミステリーを巡る評論・エッセイ・書評を編集したものです。丸谷の書評のすべてが天下一品、面白くかつ奥が深いのです。丸谷にはこの他に『快楽としての読書 日本篇』『快楽としての読書 海外篇』といった読書論の2冊がありますが、今日のおすすめはミステリー限定のこの一冊です。19~20世紀における欧米の推理小説の山脈を俯瞰する格好のガイドブックにもなっています。例えば「ホームズ学の諸問題」という一章を読めば、コナン・ドイル原作シリーズ「ホームズの事件簿」を読みたくなること請け合いです。

 ミステリー(Mystery)の本来の意味は「神秘」「秘密」ですが、ミステリー・ストーリー(Mystery story)となると「推理小説」「怪奇小説」「探偵小説」と訳され、現在ではミステリーといえば推理小説を意味します。コナン・ドイルの小説にはシャーロックホームズ、アガサ・クリスティにはポアロ、さらにはレイモンド・チャンドラーにはマーローという名探偵が登場し謎を解いて行きます。従って探偵小説といういい方も納得できます。最近では探偵が主役でなくなり、それに代わってベック警部とか、モース警部といった刑事らが活躍することになり、警察小説といってもよいようです。これらのミステリーは近代都市やその市民なしにはありえず、その意味で推理を楽しみながら社会背景を知ることができます。またミステリーは論理的思考力を養うことにも役に立ちます。面白い本を見つけて、読書嫌いを克服しましょう。それにはミステリーが一番。

2014年11月14日 (金)

これからの大学図書館に期待するもの

 古代アレクサンドリア図書館の話にさかのぼるまでもなく、中世から現代にいたるまで世界史における図書館は知の拠点であり学術文化の中心を担ってきました。大学の社会的使命が研究・教育・社会貢献である以上、大学のシンボル的施設であり、地域社会における知的集積の拠点であるべき附属図書館はそれなりの社会的役割を担わなければなりません。そこで本学の新図書館をはじめとする建築計画の参考にしようと、近年新築された首都圏のユニークな大学図書館を視察してまいりました。視察した図書館は東京理科大学葛飾キャンパス、成蹊大学、東京経済大学にあるもので、それぞれ建物のデザインは魅力的で、利用システムは主たる利用者である学生へのメッセージが明確です。開架式の部分も広く学習図書館としての機能も充実しています。もちろん今はやりのラーニングコモンズは施設の中でももっとも目立つ位置におかれています。

 戦前からの伝統的な大学の図書館はおしなべて広壮な建造物に収まり、学術研究図書館として発達してきました。しかし多くの場合一般学生が利用しやすいものではありません。静かに本を読むところであって学生たちが集まって議論するなどと言ったらもっての他です。しかしいま新しく建設された大学図書館ではそのイメージが一変されようとしています。確かに図書館の機能も情報化の進展によってこの半世紀にずいぶん変わってきました。ことに学問分野によっても図書館に求めるものが違ってきております。自然科学系の研究者にとって必要な図書は学術情報の手段であり、電子媒体を通じてグローバルな学術情報が入手できればよいと考えますし、人文科学系の研究者も複写復刻の技術が進んで以前のようにマイクロフィルムに収めて資料をみるということは少なくなったと思いますが歴史や文学の原資料には直接触れたいと思うでしょう。私のように経済統計を利用するものならば、欧米諸国の政府統計や中央銀行の月刊の統計はインターネットで入手できますから、統計集を購入する必要がなくなりました(ただし長期の景気循環を分析するというと長期統計集が不可欠です)。

 しかし以上はあくまでも学術研究図書館としての役割です。学習図書館、さらには市民開放を重視する図書館としては、一定の基本図書が開架で配置される必要があります。本は手に取って見るということが大事です。本の意匠は読書への誘いの契機となります。東京理科学葛飾では理工系の学部学生・大学院生向けの基本的専門書が開架スペースに配置されていました。一例としてある講義のシラバスに掲載された文献をすべて陳列していました。東京経済大学では専門書に加えて教養図書も含めて、学長推薦図書などというものがありました(成蹊大学も同様で、どこでも学長の読書力が試されているのでしょうか)。どのようなレベルのどのような分野の図書を収書して、配列するかということはその大学の学生に対する教育目的のメッセージでありポリシーの一環です。同様に地域住民に対しても未来の大学生にたいしても青陵大学がどのようなレベルのどのような性格の知的拠点であるかを端的に示すのがこれからの図書館の役割ではないでしょうか。

2012年2月16日 (木)

本の香り(1) 野呂邦暢『夕暮れの緑の光』から

 長い旅をする時に、私は必ずといってよいほど旅先の風土にかかわる書物を読むことにしています。行き先の国や地域にかかわる作品を数冊ぐらい買い込みます。面白そうな作品に出会うと、ついつい旅の出発前に読んでしまうこともあります。その時にはまた別の本を買い足します。そんな機会に忘れ難い作品に出会うことがあります。
 昨秋、長崎への旅の時には、諫早の作家、野呂邦暢には芥川受賞作品『草のつるぎ』の他に『諫早菖蒲日記』という名品があり、復刊されたことを知りました。早速市内の書店を探しましたが、在庫無し。そこで、他の書架を見まわしますと『夕暮れの緑の光』という魅惑的なタイトルの本が目に入りました。手にとると、なんと探していた小説の作家による随筆集ではありませんか。さっそく買い求めてその夜のうちに夢中で読みました。没後三十年を記念して編まれた「故郷の水と緑と光を愛し、詩情溢れる、静かな激しさを秘めた文章を紡ぎ続けた」稀有な作家の随筆57編です。野呂の読書遍歴、古本屋、図書館にまつわる話など各編それぞれに味わい深い作品ばかりです。その中の一篇、「菜の花忌」では、学校教師であった詩人伊藤静雄と学生だった庄野潤三との師弟のまじわりについて語られています(以下抜粋文中の『前途』は庄野潤三の作品)。
 ・・・・・人間の一生で何が稀といっても師友に恵まれるということほど稀なことはない。『前途』はすぐれた師に巡り合った青年の幸福を描いた美しい書物である。詩人の作物に惹かれてその人となりを知りたいと思うのは自然の情である。そういう人が『前途』をひもとけば、無垢の魂という鏡に映った詩人の肖像を見てとることができるだろう。
 教育とは師弟が親しく肌を接し、内なるところのものからおのずから発する肉声でもって相わたることであろう。体がパンを求めるように成長する魂は言葉の本当の意味で「先生」を求めるものである。ところが、師という言葉も弟子という言葉も、現代では死語になりつつあるのではないか、というのが私の懸念である。(「菜の花忌」より)・・・・・
 この野呂の懸念にたいして、激しい受験競争のもとで偏差値教育がすべてとなっている学校の教師からは、当然のように「時代錯誤」という反発が予想されます。特に教育熱心な教師ほど反発の度が強いのかもしれません。野呂が本文を書いてからすでに三十数年経っています。彼が懸念した状況は小中高そして大学を含めて教育現場の内と外でいっそう広がっています。しかし私は『前途』に描かれたような幸福な「師弟のまじわり」を決して夢物語にしてはいけないと痛感します。そのためには新しい革袋に入れるべき21世紀における「師弟のまじわり」はたんに倫理的・理念的なものにとどまらず、より制度的なものに発展させなければならないでしょう。コミュニケーション能力の啓発を軸とした教養教育もその一つです。
 さて長崎では、教え子M君と再会、明燈緑酒交歓をつくしました。帰新して1週間位経った頃、宅急便が長崎から届きました。驚いたことにイワシつみれの蒲鉾など長崎名物の食い物と一緒に、長崎市内でも見つからなかった『諫早菖蒲日記』がそっと入れられていたのです。大変うれしく思ったことはいうまでもありません。一日中幸福な気分でした。

2011年10月12日 (水)

青空祭を前にして -東日本大震災の年に-

 私たちの学舎は、春夏秋冬、四季折々にほんとうに素晴らしい自然のたたずまいに取り囲まれております。表情豊かな日本海の景観は、私たちに多くの感動を与えてくれます。ことに春と秋は格別です。春は桜のはかない白色が、秋には楓の葉の燃えるような紅葉が、季節を彩り、雪国新潟でも一年で最も美しい季節となります。

 今年も長く暑い夏が終わると、秋祭りの季節がやってきました。日本海を越えてくる涼風とともに青陵学園にも「青空祭」という学園祭の季節がやってきました。地方の秋祭りはほんらい収穫を寿ぐ祝祭です。しかし今秋は3月11日の東日本大震災発生からようやく半年過ぎたばかりで、祝ってばかりはおられません。地震、大津波、原発災害の連鎖的発生で、被災地のみならず日本列島の各地に深刻な影響が起きたうえに、災害からの復興は遅々として進まないことは、皆さんも承知のことでしょう。私はこの間「この大災害について目をそらすことではなく、現実を凝視すること」の必要性をたえず学生諸君に訴えてきました。災害を「記憶する」ということが次なる災害を回避する重要な手だてとなると考えるからです。

 7月になってから青陵大学・短大としてはかつてない規模で、三陸海岸に位置する陸前高田市に教職員と学生とが一体となった被災地支援のボランティアを派遣することを決めました。陸前高田市がより深刻な被災地であったことや新潟市の社会福祉協議会の職員が常駐している関係もありました。夏休み中に合計10回のバス移送で、全教職員の約5割、全学生の約2割が2泊3日の被災地のがれき整理や塵埃収集に参加しました。当初はその効果や作業の安全性をめぐって異論もありましたが、実際に被災地を体験してほしいという現地の方々の声にも励まされ、支援活動は実行されました。参加した学生諸君は何かを胸に刻み込んだことと確信します。

 たとえ明るく楽しくあるべき青空祭であろうとも、こうした今回の震災について学生なりの目線で、冷静に誠実に分析し、考える企画を是非付け加えていただきたいと考えます。たとえばボランティア活動に参加した学生の記録を発表することなども良いかと思います。毎年青空祭には数多くの学生がひたむきに取り組んでいる一方で、まるで無関心の学生も多いようです。学生全員が参加し、その絆をいつも感じるような学園祭にしたいものです。その上で地域の方々や卒業生の方々との絆が強まることを期待してやみません。むろん祭は楽しく、三好達治作詞、中田義直作曲の素晴らしい学園歌にあるように「若き日の二つなき日」の青春の情熱をこの青陵のキャンパス中にたぎらしてください。

※この文は青空祭のパンフに寄稿したものですが、若干修正してダイアリーに掲載します。

2011年5月20日 (金)

戴帽式の意義について考える

 去る5月7日に本学看護学科2年次生82名の戴帽式が、多くの来賓やご家族・保護者の方々の参列の下で行われました。学生たちが自主的に企画したのだと聞いています。現在はどの病院でも看護師はナースキャップをつけておりません。また看護婦も看護師と職名変更になり、看護職はいまや男女平等に選択できる職業として確立していまから、ナースキャップはいまや看護職のシンボルとはいえません。そのような時代に、私なりに考えた戴帽式の意義を以下のように式辞で述べました。一部のみを抜粋して紹介します。

 本学では1年次より看護学の専門科目を取り入れ、教養科目や福祉心理などの関連基礎科目と併行して学べるようにカリキュラムに工夫を加えております。それは、看護を学ぼうとする意志の強い学生の気持ちを大事にするとともに、看護を学ぶに当たっていかに様々な分野の知識が必要であるかということを理解しながら学べるという点において意義深いことと確信いたしております。2年次におけるカリキュラムでは、看護職の活動の場の一つである病院実習が組まれています。そこでは入院されている実際の患者さんの状態にアセスメントし、本当に必要とされている援助を見いだし、計画的に看護を実践することが求められます。その点において学生である皆さんは学ぶことが目的はでありますが、この実習は通常の授業とことなり、自分が学べばよいというものではありません。皆さんにとっては患者さんとの関わりの中で新しい自分を発見することのできるプロフェッショナルへの道の第1歩になるのであります。そのような意味において今日の「戴帽」の意義は、まさしく看護職という職業理念に根ざした新しい自己を確立する通過儀礼だと考えます。

 水色で清潔な、そして凜としたナースキャップを頭に戴いた皆さんが、誓いの言葉を述べる姿はとても感動的で、私は胸にこみ上げる高まりを押さえることができませんでした。もとより皆さんは深い感動を持って看護職者としての将来の志をさらに確固なものとされ、新たな決意をされたことと思います。感動というものは、深く人のこころを揺るがし、良き思い出として記憶に残るものです。これからの看護職者としての長い人生において、様々な困難に突き当たることもあるでしょう。その時には、今日のこの日の感動と誓いを思い起こしてください。

 「医療や看護の現場で活躍するためには、実践的な知識と技術に加えて、それに血を通わせる思いやりのこころが必要」です。どのような患者に対しても、その人の立場になって考えられるという心の訓練があって初めて、思いやりは「プロフェッショナル」になるものです。その上で「誰とでも、どんな状況でも、自分の言葉で語り、相手の心の痛みを感じ取り、人と接する能力」を磨いてください。ナイチンゲールが残した文の中にも「どのような訓練をうけたとしても、もし、感じ取ること、自分でものを考えること、この二つができなければ、その訓練も無用なものとなってしまうのです」とあります。忘れてならないことは「心」と「その心を伝える術」です。

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