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2012年2月16日 (木)

本の香り(1) 野呂邦暢『夕暮れの緑の光』から

 長い旅をする時に、私は必ずといってよいほど旅先の風土にかかわる書物を読むことにしています。行き先の国や地域にかかわる作品を数冊ぐらい買い込みます。面白そうな作品に出会うと、ついつい旅の出発前に読んでしまうこともあります。その時にはまた別の本を買い足します。そんな機会に忘れ難い作品に出会うことがあります。
 昨秋、長崎への旅の時には、諫早の作家、野呂邦暢には芥川受賞作品『草のつるぎ』の他に『諫早菖蒲日記』という名品があり、復刊されたことを知りました。早速市内の書店を探しましたが、在庫無し。そこで、他の書架を見まわしますと『夕暮れの緑の光』という魅惑的なタイトルの本が目に入りました。手にとると、なんと探していた小説の作家による随筆集ではありませんか。さっそく買い求めてその夜のうちに夢中で読みました。没後三十年を記念して編まれた「故郷の水と緑と光を愛し、詩情溢れる、静かな激しさを秘めた文章を紡ぎ続けた」稀有な作家の随筆57編です。野呂の読書遍歴、古本屋、図書館にまつわる話など各編それぞれに味わい深い作品ばかりです。その中の一篇、「菜の花忌」では、学校教師であった詩人伊藤静雄と学生だった庄野潤三との師弟のまじわりについて語られています(以下抜粋文中の『前途』は庄野潤三の作品)。
 ・・・・・人間の一生で何が稀といっても師友に恵まれるということほど稀なことはない。『前途』はすぐれた師に巡り合った青年の幸福を描いた美しい書物である。詩人の作物に惹かれてその人となりを知りたいと思うのは自然の情である。そういう人が『前途』をひもとけば、無垢の魂という鏡に映った詩人の肖像を見てとることができるだろう。
 教育とは師弟が親しく肌を接し、内なるところのものからおのずから発する肉声でもって相わたることであろう。体がパンを求めるように成長する魂は言葉の本当の意味で「先生」を求めるものである。ところが、師という言葉も弟子という言葉も、現代では死語になりつつあるのではないか、というのが私の懸念である。(「菜の花忌」より)・・・・・
 この野呂の懸念にたいして、激しい受験競争のもとで偏差値教育がすべてとなっている学校の教師からは、当然のように「時代錯誤」という反発が予想されます。特に教育熱心な教師ほど反発の度が強いのかもしれません。野呂が本文を書いてからすでに三十数年経っています。彼が懸念した状況は小中高そして大学を含めて教育現場の内と外でいっそう広がっています。しかし私は『前途』に描かれたような幸福な「師弟のまじわり」を決して夢物語にしてはいけないと痛感します。そのためには新しい革袋に入れるべき21世紀における「師弟のまじわり」はたんに倫理的・理念的なものにとどまらず、より制度的なものに発展させなければならないでしょう。コミュニケーション能力の啓発を軸とした教養教育もその一つです。
 さて長崎では、教え子M君と再会、明燈緑酒交歓をつくしました。帰新して1週間位経った頃、宅急便が長崎から届きました。驚いたことにイワシつみれの蒲鉾など長崎名物の食い物と一緒に、長崎市内でも見つからなかった『諫早菖蒲日記』がそっと入れられていたのです。大変うれしく思ったことはいうまでもありません。一日中幸福な気分でした。

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