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2009年4月14日 (火)

いま「大学」は?

 大学を卒業した“学士”が、それに相応しい“学士力”を保持していないと非難されています。言い換えれば、いまの大学教育は、社会が必要とする“学士像”と現実の“学士”との落差を埋めるのに役立っていないと言うのです。小、中学校、高等学校かの教育を引き継ぎ、(更には家庭教育の欠陥も論議されているのに)学校生活の最終ステージとしての大学に、一定水準の“学士力”養成を義務付けるのはかなりの難事です。文部科学省は、社会が理想とし、必要とする“学士像”と現実の“学士”との落差を“学士力”の不足と表現しました。“学士力”の不足が偏差値教育の集大成を意味するものではあり得ません。求められるのは、より根源的な人間力です。集団生活能力やコミュニケーション能力も当然それに含まれねばなりません。明示された知識、教養、技術、技芸ではなく、その根源に在る“暗黙知”こそ求められる最も貴重なものと考えます。

 どの社会でも老人は若者の在り方に不満を漏らし、期待はずれを嘆きます。古代の楔形文字を解読したところ同趣旨の文言があったそうです。時代の進歩を担う若者の力を評価しないのが老人の通弊であれば、いま論議される“学士力”の不足もまた老人の世迷い語と言うべきでしょうか?

 本来債務の支払猶予を意味するモラトリアムは、モラトリアム人間などと社会人の義務を免除される学生身分などの境遇を指しても用いられます。小、中学生を対象にした国際調査では「明るい未来があると思わない。」、「努力して人の上に立とうと思わない。」など消極的な比率がわが国の小、中学生に著しく高いことが判明しています。これらの小、中学生もモラトリアム人間予備軍と称すべく嘆かわしいことですが、その第一の理由を私は、“ハングリー精神の欠如”と、それに極めて近縁の“目的意識の希薄化”であると捉えています。僅か60年前の日本国は、飢餓と疾病の恐怖からの脱出が庶民の願望でした。いま目がキラキラと輝いている開発途上国の子供達の“ハングリー精神”は、昔のわが国に存在して、現在は消え失せたものの一つです。電化製品などは影も形もなかった当時、家事労働はもっぱら母親の重労働に頼っていました。子供達はその後姿に感謝すると
共に、母親と協働の家事手伝いに目的意識を持ったものでした。

 国家としての“目的意識の希薄化”は、日本国憲法の「平和国家」の名の下に重症化しました。(軍備を誇示する国際社会のパワーゲームで、戦争を放棄した国の国益を守るためには、その局に当たる者が一身を犠牲にして悔いのない強固な“志し”を要しますが、現実には政治家、官僚たちは安易な道を選んで、“志し”を放棄しました。)“国民の保護”は国家の義務の最重要に位置すべきですが、北朝鮮による“拉致問題”に、私は政府の怠慢の典型を視る思いです。司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」で明治期の日本を「国家の目的と個人の目的が一致した幸福な時代」と表現しました。いまそれは中国などに該当しても現在の日本国には当て嵌まりません。

“目的意識の希薄”こそが“学士力”不足の最大の原因であるとして、大学は何を為すべきでしょうか。“目的意識の希薄”な学生の“目的意識”を高揚させ、“志し”にまで高めるのは、教職員が学生に接する(授業を始めとする)日常の挙措動作において、学生に“目的意識”と“志し”を感化する以外にありません。それは口舌をもってしては何の役にも立たず、自分の“目的意識”と“志し”の高さで示すしかありません。こうしてみると大学は、吉田松陰の「松下村塾」や緒方洪庵の「適塾」の昔に戻るのかといわれそうです。形態は異なっても精神においては「その通り」というのが私の答えです。明確な“目的意識”があってこそ記憶も創意工夫の知恵も働きます。ばらばらの知識が統合されて真の知恵“暗黙知”がそこに生まれるのです。要求される“学士力”も当然のように充足されるでしょう。私たち新潟青陵大学および同短期大学部においては、学生が感動をもって“目的意識”と“志し”を教職員から受け継いで貰える。それが学園の通常であることを理想とします。

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